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凍る年末年始

謎は毎年深まるばかりだ。

 

今年の年末年始は、少し家の手伝いもしてみた。母や姉にとても驚かれ、兄にすらこう言われる。

 

「三ツ谷も働くようになってきたな!笑」

 

カッチーン!である。ムッカー!である。

 

時は2016/12/31、大晦日は毎年母の実家で過ごすのがうちの恒例である。私はこれが憂鬱でならない。

居間を見れば、祖父や伯父がコタツに入って早い時間からビールをあおる。

台所を見れば、祖母や母、姉たちがせかせかと動き回り、食事の用意やおせちの用意をしている。

おかしくないか?

 

私と兄はひとつ違い。家系図的に見れば下っ端1号と2号のようなものだ。なのに、1号は何の手伝いもしないが許される。2号が手伝いをしなかったら、ちくちくと嫌味を言われるのに。

 

母に聞いた。「なぜ1号は何もしないのに放置なのか、なぜ怒らないのか」と。母の返答はこうだ。「どうせ言っても何もしないでしょ」

なんだそれは。いわゆる家族のお荷物ではないか。

なるほど、長男とは、家族のお荷物であっても許される立場なのか。

 

世には、末っ子は甘やかされているという説がある。が、我が家においてそれは全くのデマだと言える。なぜなら、甘やかされるのは末っ子(女)ではなく、長男だ。ちなみに、長女は末っ子よりも風当たりが強いとみえる。

それが田舎だからなのか、それとも日本全域そうなのかは定かではないが、わたしの周りには、家父長制の残滓とも言うべき塵がふよふよと浮遊しているのだ。

 

 

正月に書き始めたのに、書き上げるまでにだいぶ時間がかかってしまった。今年初めのエントリーとして、あけましておめでとうございますと付け加えておく。

 

 

 

私って何だ

可愛い物が好き

フリルやリボンに心躍る

でも自分が身につける物なら、いらない。デニムや、シャツ、ニット。そんなシンプルなものがいい

二次元ならイケメンが好き。ゲームや漫画のイケメンにキュンとするし、乙女ゲームなんかも好き

でも生身の私が恋愛するなら、相手はどうしても女性がいい

だから私は、女が好きな女として自分を認識している

 

ところで、ある日こう言われた

「でも、素敵な男性が現れたら好きになるでしょ?」

はて。素敵な男性は、素敵な女性よりも素敵だろうか。そうなると、私の好きなキャラクターや女優並に素敵じゃないと、恋愛対象として認識できないんじゃないか

 

私は自分を女と認識しているし、可愛い物やイケメンにときめいたりもする。でもそれ以上に、好きな女性に側にいてほしい。

 

私はいったい、何なんだ?

 

ノーマルという踏みつけ

NL、ノマカプという表記を見ると吐き気がする。では、私のような同性愛者はアブノーマルなのか?

「創作物の話」「現実と創作を混同するな」

そのような声が聞こえてきそうだ。

逆に、なぜそこまでノーマルという表記にこだわるのか知りたい。

男女の恋愛がノーマルだから?

ノーマルの意味は正常、正規、標準的だとかなんとか。なるほど、偉大なるヘテロセクシャルの方々は、「我々こそ正常だ」と言いたいのか?

正常な人は、他者を踏みつけて何がしたいのかね。

自らをストレートと呼び、現実の同性愛者に配慮する異性愛者がいる。

では、創作においても、そのようにしてくれてもいいじゃないか。

BGという表記を見つけた。台湾で使われ始めた表記らしい。

Boy&Girl

なかなか、わかりやすくていい。

育児は誰の仕事か

ずっと疑問に思っていることがある。

家族間の問題や、非行少年の問題を取り上げた講義で、どうして「母と子の関係が〜」と言われるのだろうか。

 

父はどこへ行ったのか。

 

あなたは女の子なんだから

私には"可愛げ"がないらしい。

親や兄弟に対して、だ。「そんなことをしていたら友だちがいなくなる!」と怒られることがよくある。(そんなことでいなくなるような友だちは必要ないし、私の友だちは可愛げない奴のほうが多い……)

このようなことを私に言うのは主に母なのだが、私はどうもそれが窮屈でならない。女の子なんだからこうあれ、と押し付けられているような気がして、居心地が悪い。

 

私は自分でもどうかと思う程ずぼらで、よく「女の子なんだから、ちゃんとしなさい!」と怒られる。料理は苦手だし(一週間に三回はうどんやインスタントラーメンでもかまわないと思っている)、部屋はいつも散らかっているし(寝るスペースとモノを書くスペースがあればあとはよくないか?)、家事の類は全体的に苦手だ(必要になればするさ)。

それはおそらく、幼少期から家事の手伝いなどをほとんどしてこなかったからだが――何を手伝えばいいかわからずに右往左往しているところを「邪魔」と言われたり、一生懸命やっているところを「センスがない」「真面目にやれ」などと言われると、「ではセンスのある人がやればいいではないか」「向いてない私が手伝うのは迷惑だろう」という結論にならないか?

 

いや、きっと、素直で"可愛げ"のある女の子は「できるようになろう!」と努力するのだろう……。

 

残念ながら私は、私を馬鹿にする人、邪険に扱う人、怒鳴る人がこの世の何よりも嫌いなので、そんな人に従順に愛らしさを振りまく気にはなれない。というか、「可愛げがない」「可愛げがない」と言われて育った子どもに「可愛げがある」はずがないとは思わないのだろうか。

私が何かの偶然で子どもを育てることになったら……そんな万に一つくらいのことを考えて、親不孝で申し訳ないが、母のような母親にはなりたくないなぁ、と思う。

だけど……母も、理不尽に"可愛げ"を求められた女性なのだな、と考えると胸が痛い。

 

私は女の子らしさなどという理不尽で意味不明な押し付け概念から解放されたい。

しかし、押し付けられて育った女性にそれを突きつけるのは、きっと人格を否定することと同義なのだ。

 

人を傷つけず自分を守る方法が、何かないものか。

 

 

 

妻という生き物、母という生き物

「あたしのもっとも神聖な義務って何、あなたの意見では?」(坂口訳,1991 P121)

ヘンリック・イプセンの『人形の家』を読了したので、これは記念の軽い感想文です。

この本を手にとったきっかけは、ネットで「フェミニズム おすすめ 本」と検索して出たサイトで薦められていたからだ。

これは1879年に書かれた戯曲で、著者イプセンノルウェー人。初演はデンマークで行われた。

北欧、といえば、寒い、豊かな自然、可愛い家具を思い浮かべる人が多いだろう。

そしてノルウェーといえば、クオータ制の発祥地。北欧は男女平等の進んだ国々である、という印象も受ける。

とはいえ、これが書かれたのは1879年。日本なら明治時代。森鴎外の『舞姫』が1890年だ。昔も昔、大昔であると言える。
その頃はどこも、「女は男をたてるもの」「女は家を切り盛りするもの」そんな考えだったことだろう。

作中、序盤では夫トルワルは若く美しい妻ノラを「可愛いヒバリちゃん」と呼び可愛がり、ノラは愛らしく夫におねだりをする。端から見れば、なんと仲睦まじい夫婦か、と心温まるような、逆に憎らしい――リア充末永く爆発しろ!と言いたくなるようなやりとりが続く。

しかし、読み進めるにつれて少しずつ、「アレッ?」となる。

ノラにある困難がふりかかり、終盤では「アレッ?」どころの違和感ではなくなってくる……。

そして、これは現代日本にもよく見られることなのでは……と戦慄する。

この本を、面白くなく感じる人もいるだろう。ノラに憤慨する人や、ノラを「馬鹿な女」だと感じる人もいるだろう。そういう人たちは、今もなお、女性を不当に扱っている・扱われている人たちで、それが当然、それが自然だと思っている。そのことになんの疑問も感じず、立ち上がる女性たちを抑圧し続けるのだろう……。

女性は人間だ。
幼女という生き物、少女という生き物でもなければ、JKという生き物でもなく、妻という生き物、母という生き物ですらない。

この本を読んで生まれた憤りが、様々な人に共有されることを祈りたい。

私が何者だとしても

例えば、私は学生である。日々勉学に励み、単位について、就職について、頭を悩ませている。

また私は不眠症で、時計とにらめっこをしながら改善に努めている。

そして私は、レズビアンである。

 私がそれを自覚したのは、比較的最近のことだった。

「そういう人もいる。でもまさか、自分が”そう”だったなんて――」などどいうことは全くなく、「そうか、そうだな」と、それは私の中でストンと落ち着いた。

そして自覚してからは、普段気にもしなかった小さな問題について、目を向けるようになった。

 

自分の個性について、私は自分でも驚くほどあっさり納得してしまったが――私はそれを、家族や友人には一切相談していない。なぜなら、私は、それをさらけ出すことによって向けられる差別を恐れているからだ。

無論、誰も彼もがクィアに理解がなく、差別的だとは思っていない。しかし、誰かひとりでもそのような人がいた場合、私のこれからの生活はどうなってしまうのだろうと考えずにはいられない。現に、映画に出てきたゲイカップルを指して「ああいうの苦手」だと私に言った人もいるのだ・・・

とりあえず家族や友人以外に言ってみよう。と思い立ち、リア友などは一切フォローしていないTwitterアカウントでカミングアウトしてみた。

 

フォロワーさんたちはほとんどが女性だが、たいして興味もないようで「へえ、そうなんだ」とだけ空中リプを飛ばしてくる人がほとんどだった。八割ほど安心した。

ただ、たった一人が、爆撃のような発言をして私の頭上を通り過ぎて行った。

年上の男性だと言っていたように記憶している。彼は私のカミングアウトを受けて、冗談めかしてこう言った。

「レズは俺に関係ないからいい」「ホモは怖いから嫌」「人は異物を敵扱いする」

怒りで震えたのは言うまでもない。彼は私という「レズ」を「いてもいい」と言う(この時点で差別心は見え見えだ)ついでに、ゲイを差別し、セクシャルマイノリティは異物だと罵ったのだ。

「それは差別だ」と言っても、「冗談だよ」と受け流される。悔しい。( 以来、彼とは積極的には関わらないようにしている)

 私が何者であろうと、私は私で、ひとりの人間だ。私がレズビアンだろうと何だろうとそれは変わらない。ゲイだろうとバイセクシャルだろうとトランスジェンダーだろうと、その人はその人で、ひとりの人間だ。たまたまマジョリティーのヘテロセクシャルだというだけで、何故そこまで傲慢になれるのだろうか・・・?

自覚前の自分も、そのような傲慢な人間の一部だったのではと思うと寒気がする。